「エフエムみしま・かんなみ」 開局へ向けて

<1996年8月下旬>
 “ウォータービジョン21”のその後の勉強会。ここではやはり、「自分達で放送局を持つのは採算が合わない」という結論に至っていた。
 そんな勉強会にひとりのゲストを迎えた。鈴木 孝明さん(現在のエフエムみしま・かんなみ取締役)。彼は、ちょうどその頃“三島コミュニティー放送研究会”を設立し、三島市にコミュニティーFM局を開局したいと奔走していらっしゃった方である。
 彼は、静岡県内初のコミュニティーFM局“FM Haro”(浜松市)の開局に関わった方でもあったため、勉強会の中で「三島でのコミュニティーFM局の開局」について、かなり現実的な話を聞くことができた。どうも、自己努力でのハードの整備の心配は不要になること、そしてその時期が近いことが現実になってきた。
 その後の勉強会で、更に話を進めていくうちに、鈴木さんから「現役の学生達の意見も聞きたい」、という話があがる。その要望にこたえるべく、中島ほか数名の放送部メンバーが“ウォータービジョン21”の勉強会に再び参加し、放送部でのミニFM“N-WAVE”、湧水まつりでの“湧水FM”での経験をベースに、コミュニティーFMで学生がどう言うことが出来るかをお話する。
 その思いが届いたのか、その後も引き続き話を進めるうちに、開局予定の“エフエムみしま・かんなみ”の中で学生中心の番組をつくらせてもらえるという可能性が出てきた。

<1996年9月11日>
 株式会社エフエムみしま・かんなみが三島市と函南町が中心となって出資した第3セクターとして設立。開局準備室が三島市中央町の三島市役所中央町別館に設置される。
 鈴木孝明さんは同時に営業部長に就任し、早速、開局準備にかかる。

<1997年1月>
 “エフエムみしま・かんなみ”は会社設立当初より2ヶ月遅れの1997年6月1日(日)に開局することが決定した。“ウォータービジョン21”と“エフエムみしま・かんなみ”のパイプ役であった鈴木さんも開局準備の為、その忙しさを極めており、古長谷・松富の両氏が“コムニス企画室”の頃からが狙っていた学生制作の番組枠についての正式な決定は、なかなか頂けなかった。

<1997年4月>
 FM局の愛称が公募により「ボイス・キュー / VOICE CUE」と決定。
 ちょうどその頃、大学4年となった中島が所属する日本大学放送部に“ボイス・キュー”の鈴木さんから「学生制作番組の枠を設けることになった」との連絡がある。それに対して、具体的に制作をめざし、ようやく動き始める。

<1997年5月14日>
 学生制作番組の概要が三島・函南のエリア内、各大学・高等学校へ“ボイス・キュー”からの文書として送付される。
 その番組とは、毎週土曜日午後8時から。その制作能力に応じて30分、もしくは1時間。三島市近郊の学生が、学校単位の持ち回りで録音番組(パッケージ)を制作しMDで収録、放送1週間前までに事前提出する。その後、放送部長による放送内容・収録レベルフェーダーのチェックを受け、当日放送する。
 その番組名は「キャンパスクラブ」。この文書に対し、参加を表明した学校は、日本大学のほか東海大学・日本大学三島高等学校・大仁高等学校の4校となった。日本大学はこの4校のサイクルの中で、4週に1回の放送を行うというものであった。
 1995年秋から“コムニス企画室”にて古長谷・松富が念願としていた“'若者向けに情報発信する核をつくる”というものこそは届かなかったが、学生制作番組の枠の中に日本大学が参加できることで、それに対するひとつの大きな足掛かりができたことになった。

<1997年5月中旬>
 日本大学の第1回放送日が6月7日(土)午後8時からと決まる。4校持ちまわりのトップバッター。
 早速、中島そして同様に4年となった牧の2人が中心となり、日本大学放送部内での有志メンバーを募る。下は当時入部したての1年から、上は就職活動中の4年まで十数人のメンバーが集まった。そんなメンバーで早速、「どんな番組を創って行くか」の制作会議が始まった。